演出ノート

文責:ニシサトシ

滋企画の「滋オセロー」は

滋さんのオセローが泣く

だから客も泣く

副官キャシオーも侍女エミリアも娼婦ビアンカも泣く

でも殺されるデズデモーナは泣かない

という劇

◯黒人の将軍オセローが、嫉妬(=“緑の目の怪物”)に狂わされて、愛する妻デズデモーナを殺す。密かに彼を憎む部下イアゴーに策を弄されて。これがシェイクスピア『オセロー』の強くて単純な話。

愛し合う二人は、いかにして殺し殺されたか?

愛があるところ、憎しみも存在する。憎しみがウソを生み、ウソが疑いという妄想を育てる。嫉妬という実体のないモンスターはむくむくと膨張して、愛すべき大人物を呑み込み、殺しが起こる。文学に教訓はない。文学は「人間の可能性」を描く。

「高潔な人物」、つまり体が大きくて、心が広くて、地位も人望もある最強の人物が(ただし中でただ一人の黒人)、もっともつまらぬ “嫉妬”という人間的な弱さによって、人も自分の身も滅ぼす。稽古場でこんな話をしていたら、「オセローって例えば、大谷翔平?」と思いついた人がいた。メジャーの世界で人種的マイノリティであることを物ともせず、実力と人気と人格を兼ね備えた唯一無二の人が、結婚したばかりの美しい妻(白人)を殺してしまった、というようなスキャンダル。(オータニは敏捷で器用さに定評のある7番セカンドのチームメイトが吹き込んだウソを信じてしまったのだ!)人間であるかぎり、猿之助の殺人も広末の不倫も私たちと無関係でない。『オセロー』はそういう世界文学。

◯オセロー役を中心に「愛と嫉妬」の物語をきっぱり語ろうとする一方で。現代の『オセロー』上演で「一人だけ人種が違う」という戯曲に書かれた〈差別問題〉は避けられない。主人公の肌を黒塗りするのか(いわゆる「ブラックフェイス」。)、当事者の黒人俳優を起用するのか、それとも「塗らない」演出の選択肢を考えるのか。

滋企画版『オセロー』は、オセロー役以外は「女性たち」だけで配役される。「オセローだけが黒塗りする」のと逆に、滋企画版の女たちは皆、冗談のように「顔を青く塗る」。つまり「顔が青いこと」はこの滋企画版『オセロー』世界の多数派の証である。だが、舞台上でただ一人素顔のオセローが顔の青いデズデモーナを殺害する悲劇に至って、〈差別問題〉は「女(たち)が男に殺されてきた(=抑圧されてきた)」歴史と現状へとくるりと反転する。そうして私たち人間の現在を撃つというねらい。

本来、古典悲劇は「主人公が死ぬ」ことをもって悲劇とみなすと言われる。この上演版では、主人公が自死を選ぶ戯曲のラストは割愛し、その前段の、主人公によって「女が殺される」場面で幕を閉じる。続くカーテンコール、曲が鳴り響く中、女たちは化粧を落とす。この劇で“女性の、二流市民の烙印”であるかのような顔の青い化粧を、舞台上で彼らはただただ化粧を落とす。化粧を落として素顔で終わる。この場は連帯の意と祈りを込めて。

滋企画版『オセロー』

【オープニング】

幕開き。想像してくれ。

「何もない空間」に滋企画主宰の佐藤滋が出てくる。椅子を一脚自ら持ち込んで、舞台の真ん中に椅子を据えてその傍らに立ち、(もうそこにはいない)椅子に座った者の顔を凝視する。

俳優・伊東沙保が出てくる。殺されたデズデモーナとして。滋の見つめる先に収まるように椅子に座る。滋オセローは見下ろすように、沙保のデズデモーナは顔を上げて、互いに見つめ合う/睨み合う。一切の動きはないが、張り詰めた感情的な時間。1分。

芝居は戯曲の幕切れから始まる。殺されたデズデモーナはイアゴーに化身して、見栄を切る。(デズデモーナとしての絶望を振り切って、客に向かって)「なんんんにも訊かないでください。分かってることは、分かってるんでしょ。これから先、わたしは一言も口をききません」

イアゴー、睨むように客を眺める。

静止状態から一挙にアクション、オセローはわっと襲うように回り込み、同時にイアゴー/デズデモーナは立ち上がり、あらぬ方向にハンカチを握った拳を突き出して止まる。(水分を拭くものなどもう要らない、と)拳を緩めると、ふわふわと、ハンカチが地に落ちる。オセローはその落ちる様を目で追う、沙保は去る。滋オセローは去った方を振り向いて呆然と見つめる。滋オセローがひとしきり辞世の言葉を呟くと、落ちたハンカチを拾い上げ、(タンバリンでリズムを取りながら)「飾りじゃないのよ 涙は」を歌い始める。突拍子もなく。絶唱。(差別を含む)苦しい道のりを越えてきた人生の、万感の思いを込めて。

しゃかりきに歌う滋の歌にかぶって、ごく控えめな音量で曲がかかる。竹内まりや「プラスティック・ラブ」。火サスのエンディングのようでもある(竹内まりやなので)。この劇のオープニング曲でもある。30秒間のイントロ中に曲は徐々に音量を上げて、舞台奥に字幕。

「滋企画版」

「シェイクスピア『オセロー』」

歌が始まって、歌詞も投射される。一見古典とは無縁なような都市的な恋愛ゲームの歌。(だが、これは私たちの現在シェイクスピア劇だ。)滋オセローは構わず歌い続けるが、最小の音量から始まった曲は徐々にボリュームを上げて存在感を増していき、いつか度を越して滋の歌をかき消すほどの轟音になる・・・〈事の始めは大人しく耳に棲みついて、遂には人の全人格を呑み込むまでになる“嫉妬”〉。間奏に至って(2:20〜)、顔を青塗りした女たちが、一人ずつ、現れて通り過ぎる。歌う滋オセローと無関係のように仏頂面で、舞台を斜めに横切る。中森明菜を歌い終えて、滋オセローは自らを刺して死ぬ。暗転。

ここから(竹内まりやの曲はまだ流れている)、シェイクスピアの台詞劇がわっと始まる。事の始まりに戻って戯曲の通りに。

【1幕@ヴェニス】

[1幕1場]

暗転のまま、暗闇の中で。「ちぇっ!」という捨て台詞を皮切りに、女三人のロダリーゴー(ズ)とイアゴーが口々に言い争いをする。一人称と二人称の〈わたし=I/me〉と〈あなた=you〉という言葉が飛び交うなか、唐突にすんと静かになってロダリーゴーの「言ってたじゃん、〈あいつ=him〉が憎いって!」という強いフレーズが空間に響く。(暗転で見えないが)一同、睨み合う間。

伊東沙保が演じるイアゴーが饒舌にロダリーゴーズを言い含める。一人が三人、三人が一人のロダリーゴーズは、それぞれで口々に文句をつけ、ダラダラしてイチャイチャしてゲラゲラ笑って、同調して、ケンカする。三人それぞれだが、三人で一つの生き物のような。四人が同時に喋る。ベラベラ喋るイアゴーが、ロダリーゴーズを口車に乗せて手玉に取る。「デズデモーナを欲しくば、父ブラバンショーに『今晩、黒人オセローと娘デズデモーナがやった』と密告しろ、騒ぎを起こして焚き付けろ」とイアゴーに言われるまま、なんだかんだロダリーゴーズはその気になる。

ロダリーゴーズ:「ロダリーゴー」はイアゴーに意のままに操られて、劇の途中で死んでいくだけの登場人物である。事実無根の罪を着せられて殺されるデズデモーナが可哀想と言うなら、ロダリーゴーだって可哀想である。劇自体に使い捨てされるようなロダリーゴーはしかし、作家によって戯曲開幕の台詞を与えられている。作家は、(私たちのような)この小人物に眼差しを投げかけている。今回この使い捨てられる役が、わざわざ女性三人によって「ロダリーゴーズ」として演じられる。

イアゴー/デズデモーナ:滋企画版「オセロー」では、被害者デズデモーナと「悪役」イアゴーの二役が伊東沙保一人によって演じられる。この強引な配役は、実のところ計算ずくではなく、演出家ニシの直観によるので、吉と出るか凶と出るのかは未知数だ。でもそれでも、旧来的な女性観の枠から一歩踏み出した「冒険心のある」デズデモーナという造形(後述)と、男性社会を憎むが「意志を貫徹する」女イアゴーというチャレンジに、幸福な接触に電流の流れる瞬間があり得るんじゃないか、そうして観客のシンパシーを呼ぶ奇蹟が起こり得ないか、と期している。まったく望んでいない「女が、女の足を引っ張っている」という受け取り方をされる懸念は大いにある。火花の散る瞬間は、計算よりも、稽古場での発見・発明に賭けたい。

イアゴーについて。まず何より第一、女性に(つまり伊東沙保に)「悪を愉しんで演じて」欲しいと思っている。あまり女性に配役されることのないだろう「愉快犯的な悪」を。(この願いの栄養になっているのは、ヘンリー・ジェイムズの「ある婦人の肖像」という近代古典小説で、ある伯爵夫人が主人公イザベルに向かって言う台詞に心打たれたことだ。「一生に一度くらい、少し悪者(wicked)になってみるのも、案外いいものよ!」)

(↑書きっぱなし、ここは主に二人に向けての共有かも)

[1幕3場]

一方、ヴェニスという都市国家の一大事。(青い女たち四人で行う。)緊迫している。あたふたしている。トルコ艦隊がキプロス島を攻めてくる、らしいが情報が錯綜して状況は慌ただしく二転三転、文字通り右往左往する、から騒ぎ。そこに滋さんのブラバンショー(デズデモーナの父)が「大変だ!娘が、娘が…」と飛び込んでくる。国家の大騒動が一瞬止まって、一同息を呑む。「……死んだ?」

父ブラバンショー「黒人が娘をさらって結婚したのです!」

なあんだ…と緩む一同。だが父親の嘆きは必死である。公爵(=ヴェニスの君主・てきとーな人物・「三人」のうちの一人が演じる)がブラバンショーをなだめるように話を聞く。激しく嘆き悲しんでいた父ブラバンショーを演じていた滋さんは、スッと落ち着き払うと、堂々たる、人々のリスペクトを集める、だが大変感じやすい将軍オセローになって、「皆さん」とその場の元老院の人々に見立てられた観客に向かって、ゆっくり話し始める。請われてデズデモーナとの愛のいきさつを話す滋オセローは、その話の最初から慈愛と感情に満ち満ちている。聞く者が皆心動かされる。

デズ:従来、「黒い男」オセローに対して、貞淑で年若い(10代の)「か弱きもの」としての「白い女」と描かれがちなキャラクターだが。滋企画版では、①冒険心と意志を持った②愉快で(冗談好き)頭のよい③率直にフェアでありたい人間として描きたい。「自然の掟に逆らって」黒人と結婚したのであるから、慣習からはみ出してオセローと一緒になることで、心のうちに「女の私も力を持てるのだ」とワクワクしていたと考えたっていい。しかし力を持った女は「ガラスの天井」に阻まれる。(アメリカというリベラルな国であっても、いまだ女性大統領は生まれていない。男女が半々の世界でこれは「別に当たり前」のことではない。)

デズデモーナも、父に対してきっぱりとオセローを選択する。父ブラバンショーはそれを受け入れながらも、オセローに「いつかお前だって欺かれるぞ!」と餞別を言う。公爵はトルコとの戦争に向けてオセローにキプロス行きを命じる。「帰りを待つ女」を嫌うデズは同道を願い、受け入れられる。出発は即日。(キプロスまでは2週間の船旅。)

デズの恋敵との結婚を知ったロダリーゴーズは、死にたいというほどくよくよする。あんな結婚がうまくいくわけない、何もかも俺たち次第だ(そのために金を作っとけ)と発破をかけるイアゴー、すぐその気になるロダリーゴーズ。陰謀の見通しを考えるイアゴーの独り台詞。

【2幕〜5幕@キプロス島】

舞台はヴェニスから「キプロス島」へ(最終5幕まで)。戯曲上、キプロス上陸から悲劇の進行は、ものの1日半・36時間以内に終わる。

以降、青い顔の女三人(ロダリーゴーズ)を女1・女2・女3とする。女1=娼婦ビアンカ、女2=副官キャシオー、女3=侍女エミリアも演じる。さらに女1→女2→女3の順で場ごとにデズデモーナも演じる。

[2幕1場]

オセロー一行のキプロス上陸前に、嵐によってトルコの敵艦は霧散する。(つまり国家の一大事=戦争は起こらない/代わりに人間の一大事=殺人が起こる。一体どちらが私たちにとってより一大事か?)

副官キャシオーと、デズデモーナ、旗手イアゴーは無事に上陸。歓迎の意を込めて、キャシオー(女2)がデズデモーナ(女1)の「手を取った」ことをイアゴーは見逃さない。「この瞬間」から以後36時間止まることのないイアゴーの陰謀が動き出す。(皮肉にも)それと同時に将軍オセローが上陸、新婚の夫と妻は無事の再会を喜び合い「幸福の絶頂」を迎える。見つめ合う。抱き合う。

[2幕3場]

悲劇の前哨戦として、副官キャシオーが罠にはめられる場。(展開とアクションの多いこの場の演出的趣向はまだ思いついていない。が、芝居の要はこの後なので、「手早く楽しくよく分かるように」処理するのじゃないかと思う。)

祝宴の場で、弱いにも関わらずイアゴーに酒を勧められたキャシオーは、酔って喧嘩沙汰を起こし、前キプロス総督(モンターノー)に重傷を負わせる。(おそらく新婚初夜の最中だった)オセローは、軍規を優先して副官キャシオーを免職にする。「名声、名声、名声!掛け替えのないものを失くしてしまった」と泣き喚くキャシオー。イアゴーは、キャシオーとデズデモーナを接近させるべく、「将軍の奥さんに取りなしてもらいなさい」と真っ当に見えるアドバイスを送る。

[3幕から4幕]

3−3、3−4、4−1、4−2は、オセローが「嫉妬の種を植えられてから、妻殺しを決意するまで」で、大半は「オセロー×イアゴー(4場面)」と「オセロー×デズデモーナ(5場面)」のシーンであり、オセローの佐藤滋とデズデモーナ/イアゴーの伊東沙保の二人を中心に「1日の出来事がひとつながりに」演じられ、演技的にこの上演のもっとも重要な時間(観客にとっては見どころ)になるだろう。

キャシオー、エミリア、ビアンカは都度女三人によって演じられる。入れ替わり立ち替わりで短くデズデモーナも演じる。その時、女四人によって演じられるデズデモーナは一切キャラクターの整合性を求めない。逆にそれぞれの個性を活かしたまるで違うデズデモーナがよい。一人の殺される女性=デズデモーナが「女性たちの、誰でもあり得る」ように。

[4−3]

「デズデモーナ×侍女エミリア」のシスターフッド(女性たちの連帯)の場面。ふらと女たちが揃って、四人で演じる。人が変わった夫オセローに邪険にされるデズデモーナを想って、エミリアの方が泣く。四人でまったり話す、嘆く、みんなでしんみりする、笑う。殺しの場、嵐の直前の静けさ。四人で小声で歌う。デズデモーナは泣かない。(本来エミリアの台詞だが→)「もし世界が手に入るなら、ちょっとした悪さくらいさせろ!」まだ諦めない。希望を持つ。

[5幕1場]

前場の女四人からそのままつながって。沙保はイアゴーと化して(前場のデズデモーナの希望がイアゴーの意志へとつながるとよいかもしれない)、他三人のロダリーゴーズを叱咤する。陰謀の総仕上げ。その途中でロダリーゴーズは刺されて全員死ぬ。呆気なく。

(2−3同様、アクションと展開の連鎖が多い場で演出プランも未定だが、この劇でチャンバラは重要でないので、手早い処理をするかもしれない。)

[5−2]

決定的な悲劇の起こる最終場。殺人の場面。泣きながらも妻の不貞を疑わないオセローに対して、デズデモーナは「自分の冒険はここまでか」と悟る。勇敢な女性たちがぶつかって来た〈ガラスの天井〉に想いが及ぶ。絶望から、深い深いため息を一つつく。でも泣かない。息を吐き切った後、顔を上げて、男の顔を凝視する。二人見つめる、劇冒頭の図。1分。ひと思いにわっと襲いかかるオセロー。身をかわすデズデモーナ。曲、「プラスティック・ラブ」再び。音が割れるような大音量のなか、人形劇文楽の心中物の心中場面のような。人間が懸命に殺し殺される「殺害」の場。

襲う。躱わす。激情に駆られる。醒めた目で見つめる。過去が混じる。「幸福の絶頂」であったキプロス上陸の再会のように見つめ合う。抱き合う。凝視する。襲う。躱わす。醒めた目で見る。見つめ合う。抱き合う。凝視する。何度も何度も同じ動きを繰り返す。息が上がる。遂に男は枕を女の顔に押し当てる。ジタバタする。男は泣きながら息を塞ぐ。女は動きを止める。暗転。

・・・・・・・・・

【カーテンコール(のような天国の場)】

竹内まりやのシティ・ポップから一転、TWICE「Like OHH-AHH」が大きく鳴り響く(←「優雅に」という曲名だそう)。いかにも劇の終わり。だが、シェイクスピアの戯曲からはみ出して。言葉のない音楽だけの場。

暗転が明けると、死んだ者たちのいる天国。または女たちが生まれ変わった別世界。暗転前に殺された青い顔の沙保は体を起こして舞台上に一人、高らかな音楽が響くなか、しばらくぼんやりする。もしくは虚空に目を向けてじっと考えている。

時間が経って、一人、ロダリーゴーズであった青い顔の女がメイク道具を手に入ってくる。(役割はもうおしまい、と)座って、「青のメイク」を落とし始める。「低い靴を履いても価値はhigh」 女が一人、もう一人と入ってきて、顔の青色を落とす。メイク落としを差し出され、促されて、沙保も顔の色を落とし始める。女たち、ただただメイクを落とす。三人の女たちは時折じゃれる。ここにモップとゴミ袋を持った滋さんが入ってきてもいい。床を拭きながら別に談笑してもいい。

TWICE:近年、俺は芝居にすぐTWICEを使おうとする。昔はすぐ宇多田ヒカルを使おうとしていた。どちらも別に好きは好きだが、使うのはたぶん、好きだからじゃない。思うに、彼らが、時代を担って時代を拓く存在に俺に見えてるからだ。塾講師やってる時に、授業後の教務室で、当時中2の女子二人が俺のすぐ目の前に現れて、何の断りも置かず延々と踊り始めて大変困ったことがある。「ナニそれ……」「とぅわいす。」「ナニ?」「えっ、せんせーTWICE知らないの!?」彼女らももう大学2年生のはずだが。あの頃みたいに、やりたい放題やれてるといいなと願う。韓国、日本、台湾のアジア系だが国の垣根を越えた女たちのグループ。ガールズエンパワメントが志された楽曲。だからすぐ使おうとする。

(今、たまたまだが、明け方曇り空の窓の外に、大きな虹が見えてる。)

顔の色を落として、女たちが素顔になる。(簡単な化粧ならしてもいい。)真っ青になったコットンはゴミ袋にまとめて、それを客に預ける。受け取ってもらえたら、カーテンコールのお辞儀。(できれば)ここまで1時間45分。

………………この夏、渾身の力を傾けて書かれた「演出ノート」ではあるが、これはもちろん青写真に過ぎない。クリエイティブな発見と発明は、俳優たちによって稽古場で起こる。

(2023.8.23)

※この「演出ノート」は、稽古初期に演出・ニシサトシからキャスト・スタッフへ共有されたものです。